祭神

主祭神
主祭神
相殿神
相殿神

神話ゆかりの地

「多家神社」と「」について

当地は古事記、日本書紀ゆかりの地です。神武天皇が日本を平定する旅の途でお立ち寄りになったと伝わります。この神武天皇の皇居が、日本書記では埃宮、
古事記では多祁理宮(たけりのみや)と記述されています。
また、多家神社は平安時代の書物「延喜式」(当時の法典)に速谷神社、厳島神社と共に安芸の国の名神大社として列せられています。
二つについて、詳しく下記のように伝えられています。
右記の由緒が記されている。

※右記の由緒が記されている。

※下記の由緒が記されている。

神武天皇東征経路

この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。
『古事記(712年完成)』に阿岐国[安芸国](あきのくに)の多祁理宮(たけりのみや)に神倭伊波礼毘古命[神武天皇](かんやまといわれびとのみこと)が七年坐すとあり。『日本書紀(720年完成)』には埃宮(えのみや)に坐すとある。
この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。

平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神大社三社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社[厳島神社](いつきしまじんじゃ)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。
当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。

中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。
そこで明治6年(1873)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。
明治7年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。
大正4年(1915)9月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正11年4月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。
なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。

神武天皇東征経路

神武天皇御腰掛岩
多家神社の近く、松崎八幡跡地には、神武天皇が腰掛けて休んだという岩が「腰掛岩」として残されています。
※腰掛岩へお越しの際は、現地に駐車場がございませんので多家神社へお寄りの上お越しください。
神武天皇御腰掛岩
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